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- 菱屋町(近世)とは
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菱屋町(近世) 江戸期~明治7年の町名伏見町のうち北組坪井組16町の1つ毛利橋通の北に位置し,南は大文字町に隣接する城下町時代からの町家地で(豊公伏見城ノ図),寛文10年山城国伏見街衢並近郊図によると,南北路の東側に浄土宗心光寺,西側に浄土宗大心(信)寺が描かれている大心寺は心光寺とともに知恩院の末寺(京羽二重織留)当町から北は市街地はなかった天保頃は坪井組組頭の坪井一右衛門の取持町で年寄を選出しておらず,軒数は6軒(伏見町誌)明治元年9番組,同5年伏見第11区に所属同7年西菱屋町と改称 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菱屋町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は大坂三郷北組のうち明治初年からは玉造を冠称江戸初期には越中町・大路町と呼ばれていた元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数18軒,役数19,うち無役数2(年寄・会所),年寄は菱屋八兵衛町名は町年寄名に由来すると推定される「宝暦町鑑」には,「玉造いなり前すじより一筋西ノ丁,久宝寺橋通南へ入,北ハ越中町」とある明治2年大阪東大組,同3年大阪南大組に所属同5年玉造仁右衛門町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菱屋町(近世) 江戸期~明治元年の町名伏見町のうち南組古屋組30町の1つ毛利橋通に面し,濠川にかかる毛利橋東詰の外濠の内側に位置する豊公伏見城ノ図では,毛利橋通の北側が丹羽五郎兵衛屋敷,南側は毛利長門守屋敷になっている寛文10年山城国伏見街衢並近郊図では,毛利橋通の北側は加藤出羽守屋敷があり,南側は町家地である加藤屋敷は肥後町にもかかり,菱屋町では町役4軒を負っていた(伏見大概記)明治元年東菱屋町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菱屋町(近世) 江戸期~明治4年の町名西洞院通出水下ルから下立売までの町江戸期は川東廿九町組の十六町組,文久3年京都守護職の役邸設置に際し東半部は藪之内町に編入明治4年残余は丁子風呂町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菱屋町(近世) 江戸期~明治元年の町名浄福寺通中立売下ルの町寛保元年刊京大絵図に「ひしや丁」と見える江戸期は上西陣組の新シ町新柳馬場八町組明治元年丸本町・東富仲町と合併し菱丸町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」